2013-06-18

学歴革命 秋田発 国際教養大学の挑戦


学歴革命 秋田発 国際教養大学の挑戦(2012)
中嶋 嶺雄

学歴革命  秋田発 国際教養大学の挑戦

アメリカでいうところのLiberal arts collageを、秋田に作った学長の本

自分もそうだったけど、文系の学生にとって、大学は入るものであって勉強するところではないし、今もそうだと思う。実際、事務系の職種の多くは、大学の勉強と職業教育はつながってない。だから、学生にとって、まじめに勉強する動機なんて皆無に等しい。結果、文系の学生たちは、論理性を身につけることもなく、事務系サラリーマンへと就職することになる。

英語も事情が似たようなもんだ。かつては、海外でビジネスをする業種は、商社・エネルギー・素材・機械くらいだった。だけど、いまや、小売や食品、飲料、サービスなど、かつて日本国内でしか商売してなかった業種も、当たり前のように海外進出をはじめた。その意味で、もはや、対外的には、サラリーマンたるもの英語くらい使えないと仕事にならない。しかし、世の中の多くのサラリーマンは、英語などとうてい使えない。

ということで、英語で自分の主張を論理的に発言できる人材を輩出するために、英語で学ぶアメリカ流Liberal arts collageを秋田につくったのが国際教養大学なのだ。

がしかし、よく考えてみると、同じようなコンセプトの大学は他にもある。そう、ICU(国際基督教大学)。あそこも英語で学ぶ教養大学だ。じゃあ、ICUの子が日本の会社に入るとどうなるか?というと、、、、悲しいかな、結局、日本流の組織に染まってしまう。

英語が使える彼らは、英語人材と呼ばれ、最初はチヤホヤされる。だけど、結局のところ、翻訳家的な扱いを受けてしまうことが多い。といっても、翻訳家だったとしても、英語を使える環境に身をおければまだマシなほうだ。ICUをでても、英語を使わない部署に配属される人は、本当に多い。ICUの子達を見ていてかわいそだなーと思うのは、所詮、英語ができない人々が多数派を占めるので、意図的でないにせよ、やっかみまがいのことを言われやすいことだ。たとえば

「英語ができても、仕事ができなければ意味がない」

というのはありがちな批判のひとつ。まあ、真実だと思う。だけど、英語も仕事もできない人が多数派ってのも事実なのです。つまり、英語ができない人が多いんだから、仕事ができる人が、英語ができない人から多く出るのは、そりゃ当然なのだが、いかんせん僻みがあるので、そうとは考えられないのが僻みたるゆえんなのです。

あと、多くのサラリーマンは論理的に物事を考えるのが苦手だと思う。なぜなら、学生のときに、ぜんぜん勉強しないから。その意味で、自分の考えを論理的に主張できる後輩ってのは、逆に目障りって気がする。というのも、多くのサラリーマンは、自分の担当業務を深く理解して業務を遂行しているわけではない。むしろ、単純に過去の慣習を繰り返していることのほうが多いのではないか。そんな状況のなか、根掘り葉掘り理屈を問いただしたり、過去の慣習を批判する切れ者の後輩の存在など、上司や先輩にとって目障り以外の何者でもない。その意味で。職場では、どちらかといえば、、あやふやだったり、間違った指示でも目をつぶり、従順に、言われたとおりに作業する後輩のほうが、上司や先輩の面子もつぶれず使い勝手がよいのだ。

ということで、国際教養大学の学生が世の中に進出するにつれ、上意下達を重んじる体育会系学生の価値が高まるのではないかと、本を読みながら心配になったのでございます

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