2015-12-19

「学力」の経済学




「学力」の経済学(2015/6/18)
中室 牧子 (著)


経済学者が、学力の投資効果を、計量経済学をつかって明らかにした本、というか、教育経済学が明らかにした内容を、世間様向けにまとめなおした本。

正直なところ、ずいぶん前に呼んだので、すっかり内容を忘れてしまった。ただ、読みながら思ったことといえば、これをなぜ経済学者が?ってこと。

一般向けの本だからなんだろうが、テーマが良い意味で俗っぽい。雑な書き方しかできないのだが、子供の成績を上げるために、ご褒美を上げるべきかとか、ほめるべきかとか、どのタイミングで、どんな内容の教育に投資すると、大人になってよい報酬、まあ、言ってみればお金持ちになれそうなのか?といったところなのだ。

教育と名のつく学問分野といえば、普通に教育学とか、教育社会学とか、教育心理学とか、そんなとこがすぐに思い浮かぶ。で、ずいぶん昔からあるこれらの分野は、なんで教育経済学で研究した内容を、誰も手を付けなかったんだろうか。

この分野の開祖で、ノーベル経済学賞をもらったJames Heckmanは、最初、労働経済学者だったらしいが、貧困解消の政策効果を調べる中で、教育の投資効果を調べるようになったらしい。何となくだけど、なんで社会学者が、この手のテーマを調べていなかったのが、すごく不思議なのだ。しかも、Heckmanは、なんとすごいお金をかけてパネル調査を行ったらしい。よくわからないのだが、やっていることは、計量社会学みたいなので、ほんと、なんでなんで?とおもってしまうのです。

さらに不思議なのは、はっきりとはわからないけど、Heckmanの業績を、教育社会学者が完全無視しているっぽいところ。というのも、Google先生で、Heckmanと教育社会学とか、そんなキーワードで調べてみたのだが、まったくヒットしないのです。

そもそも教育社会学って、何だったけ?と思い、いろいろネットを見ていたら、実は、教育社会学はまだ何を調べるべきかがよくわかっていない分野なんですとか、教育とは社会によって構築されてたものなので、教育を脱構築する必要があるとフーコが言い出したとき、教育学者はみんなフーコファンになってしまいましたとか、そんなことが書いてあった。まあ、なんでしょう、教育学者は、新興宗教の門徒のごとく、人間社会から解脱しようとしていたので、世間様の下世話なテーマなど、目に入らなかったということなのかもしれない。こんなことを書くと、また、頭がおかしいと思われてしまいそうで怖いのだが、フーコとか言っている社会学者は、自分たちは、スーパー客観的だというものの、僕から見ると、新興宗教を信じているようにしか見えないというか、フーコは新興宗教の教祖のように見えるのは、何かの間違いなのだろうか。

詳しいことわからないけど、社会や学問、あるいは自然科学でさえ構築されたものって、そんなこと当たり前じゃんって気がする。何かについて考えるためには、なんらかの前提なり、ものの見方を事前に構築することが必要であり、その見方とは、未来永劫ベストかどうかわからないけど、ひとまずそれで色々考えてみますってことだと思うから。それを指して、恣意的だとかなんだかんだ言うのは、批判している自分たちだって、この考え方から逃れえないのに、敵方だけを批判するのは、なんだかずるい気がするのであるが、どうなんでしょうかね。

関係ないことばっかり書いちゃったけど、本に関していえば、「お金を稼ぐためには、知能よりもコミュニケーション能力とか、忍耐強さが大事」とか、「成果をほめるよりも、努力を誉めたほうが、努力を促しやすい」とか、まあ、ごく当たり前なこと、いや当たり前のことが大事だと思っておりますが、がたくさん書いてあると思われ、まあそりゃ、この本売れるはずだよなと思った次第なのでございます。

--------------

'15/12/31追記

教育社会学(or 教育心理学)が、教育経済学が指摘した成果に言及しないのはなぜ?ってことに、守先生が答えていた。



守一雄のホームページ
DOHC(年間百冊読書する会)MONTHLY
【これは絶対面白い】
中室牧子 『「学力」の経済学』 (ディスカヴァー¥1,728)
http://www.avis.ne.jp/~uriuri/kaz/dohc/dohc1601.html


科学的な方法論を用いることではじめて信頼に足る結論が導き出せるのであると信じてきました。しかし、なかなか明確な結論が出せないことばかりで、(中略)ほとんど成果が出せなかったのは残念なことです。

 だからといって、世の中は教育心理学の成果を待ってはくれません。教育心理学の知見を踏まえた教育政策をすべきだと思っても、政策への提言ができるほどの確固たる研究成果を教育心理学者は提供できていないわけです。その結果、「ゆとり教育」の導入にも、その後の後退にも教育心理学者は何の役割も果たせませんでした。特定の教育政策を取る前に、実証的な実験を全国の国立大学教育学部の附属学校でやるべきなのだ、と授業では話しても、文科省はおろか附属学校のトップさえ動かすこともできない自分の非力さは情けないかぎりです。

(中略)

思えば、教育心理学が政策決定などに影響力を持てなかったのは「おカネ」のことを考えなかったからです。おカネが絡むことを何か汚いことのように考えて避けてさえきたと思います。しかし、世の中を動かすのは結局おカネです。そうした意味で、経済学者なら力を発揮できると思うのです。


よくわからないけど、とっても正直な感想なのかもしれない

中室さんが教育経済学の成果といった研究結果の多くは、教育心理学、あるいは教育社会学の成果だという気がする。でも、そんなこと当然なはず。なぜならば、学際的な教育学といえば、心理学か社会学に決まっているから。その意味で、守先生は、トンビに油揚げをさらわれた感があるのかもしれない。だけど、社会学者や心理学者が、人の心や社会の構造、あるいは社会階層の再生産といったことに注目して、社会の中で教育をどう役立てるべきか?とか、効率的な教育、教育の資源配分方法といった内容にに注目できなかったのは、彼らが、社会のエンジニアとしての学者という役割を意識しきれなかったような気がいする。経済学は、おおざっぱに言えば、金勘定抜きにして語れない面が多分にあるので、学者であり、エンジニアという側面がある気がする。がしかし、心理学や社会学は、本当に、象牙の塔に立てこもっている印象があり、その辺が、なんとも、という感じなのであり、フーコーとか言い出すと、もう病気?って気さえするのです