2014-01-24

浮気と性淘汰

久々に他人のブログについて思ったことを書いてみる

2014年01月14日 金融日記

週刊金融日記 
第92号 血縁淘汰理論による父娘関係と非モテ理系男とキャリア女の考察、他 

1.血縁淘汰理論による父娘関係と非モテ理系男とキャリア女の考察

50人の男と50人の女の村で考えてみましょう。ここで、チャンスがあっても浮気をせずに、ひとりの女を愛し続ける男と、チャンスがあったら浮気をしてどんどんセックスしようとする男がいたとします。

(中略)

 こういうふたつのタイプの遺伝子があったら、世代を重ねるごとに、どちらが増えて、どちらが減り、最後には遺伝子プールの中からどちらが消滅するのか、とても明らかですね。当然ですが浮気する遺伝子が勝ち残ります

(中略)

一方で、女のほうは、男よりもセックスのリスクがはるかに大きいです。というのも、妊娠と子育てのコストが大きいし、子供をを持つ機会も限定的だからです。パートナーが浮気性な場合、子育てのコストはさらに大きくなります。よって、女の場合は、様々な観点から相手の男を慎重に選ぶほうが、遺伝子プールの中でのシェア獲得競争で有利に働いたために、そのような性質が獲得されたと考えられます。

(省略)

血縁淘汰、というか性淘汰の話ですね
なんか、ちょっと雑なような気もするけど、まあ、書いてあることは、どうでもいいんです
自分も専門家でもないし。

で、おもったことは、男性の浮気性の遺伝子(というものがあるかは知らない)は、本当に集団の中で広めることができるのか?ってこと。常識的に考えても、この経済が発達した現代でおいてさえ、女性(単独)での、妊娠・子育てコストとリスクは依然として大きい。であるならば、浮気性(と思われた)男性は、女性が受け入れないので、浮気性の遺伝子は集団内でそう簡単には広まらない。

とくに、小さい集団では、人間関係、あるいはネットワークが発達している。男性の浮気性の評判というか、情報は簡単に広まりそうなもんだ。だから、単純に性欲に基づいて利己的に行動する浮気性の男性は、逆説的だけど、パートナーの女性を見つけることができない。女性にとって、浮気性の男性の子供をもつ至近的なメリットは皆無だ。そいういば、子殺しをした母親の動機のほとんどが、子育てに父親のサポートを得られないことや、そもそも子供の父親がはっきりしないときだ、ということを書いた本を読んだことを思い出した。

人が人を殺すとき
~進化でその謎を解く~
マーティン・デイリー / マーゴ・ウイルソン

人が人を殺すとき―進化でその謎をとく


といいつつも、人間社会は不思議なもので、不貞を禁じる道徳が存在する一方で、不倫や浮気性を男の甲斐性とみなす風習もある。不貞を禁じることのメリットは男女ともに大きい。子育てに対する責任が明確になる、つまりだれの子供かが明らかになるので、女性が一人で子育てするリスクがなくなるし、男性にとっても、自分の遺伝子を持たない子供を育てる恐れがなくなる。簡単に言えば、フリーライダーを排除することができる。

では、浮気性や不倫がいまだにのこっているのはなぜか?

こう考えたらどうだ。

浮気性が遺伝するならば、浮気性の男性の子供を身ごもり育てた女性の子供も、やはり浮気性になる。母親にとって、自分の子供が浮気性なのは不愉快かもしれない。だけど、浮気性の子供は、あらゆる相手とセックスしようとするので、自分(=母親)の遺伝子を集団に広めるという長期的なメリットがある。そう考えると、男性に浮気性と甲斐性があるならば、女性にとって子育てのリスクはヘッジできるし、同時に、自分の遺伝子を、相手の浮気性の遺伝子を利用して広めることができる。もし女性も浮気性の遺伝子をもっているならば、甲斐性がある浮気性の男性と気軽にセックスすることにもなり、さらに浮気性の遺伝子は集団に広まりやすくなる。

こう考えると、男性に甲斐性があるならば、自分の遺伝子を広めるという点において、浮気性は女性にとって大きなメリットがある。そして、実際、女性は金持ちの男性が大好きだ。そして、浮気性は、単なるフリーライダーではなくなる。

こんなことを書いていて、ふと、日本の性的に禁欲的な一夫一妻制は、明治時代になって武士の風習が一般化したものであり、江戸時代の一般庶民は、フリーセックスが当たり前だったということを、大学の授業でならったことを思い出した。といいつつも、一般庶民は貧乏だったらしいが。

ひょっとしたら、強力なリーダーシップ・仲間が信頼する傾向、言い換えると、集団内で仲間の協力を引き出し成功する傾向と浮気性の傾向は共進化するのかもしれない、と漠然と考えたのでございましたとさ

2014-01-19

働き方と体力

ここ数年、気力に体力がついていかない場面が多くなってきた

自分自身、仕事に人生をかける気はまったくない
人生・家族>仕事だし、働く目的は生きることだと言い切れる
仕事がない人生は張り合いがないかもしれない。が、仕事を優先して、家族や健康をないがしろにする気は全くない

にもかかわらず、ここ数年、体調を崩すことが目に見えて増えてきた

3~6ヵ月に一度、胃や横隔膜に激痛が走る
いてもたってもいられず、病院に駆け込み点滴を打ってもらう。が、いろいろ検査しても、特に悪い所はないと、お医者さんはいう

ことしは、正月明けから風邪をひいてしまった
いままでならば、一日寝ていれば、熱も咳も収まったのに、ことしは、2週間たった今でさえ、咳が止まらない

数年前には、先天性の側弯症が判明した
それまでは、筋力があったので腰痛になることはなかった。が、仕事中心の生活の中で運動不足を引き起こし、筋力が衰え腰痛になってしまった

食生活もむちゃくちゃだ
最後に自炊したのは、一体いつのことだろう?
別に、仕事が大好きなわけでもないのに、担当している分量や責任を、普通のレベルで果たそうとするだけで、仕事漬けの生活になってしまう。

出世したいわけでもないのに、仕事を生活の中心に置く必要があるのだろうか
頑張ったところで給料は変わらないし、業績が良くなる気配もない。手を抜くと批判されるが、責任を果たしたところで、なにも改善しない。批判する人がとても忙しいかと言われれば、そうでもない。一体何のために働いているか、最近分からない

現実は、気力が体力を支えきれなくなっているのかもしれない
サラリーマンとは、こういうものなのだろうか?
苦しまされた挙句、いろんなものがご破算になるのは真っ平だ
気力と体力の限界、つまり体を壊す限界まで働かないと、給料というものはもらえないのだろうか?

いろんなことがわからなくなりつつある今日この頃

2014-01-13

競争しないですむように働く

今は使っていないけど、数年に一度、英語を使う仕事がめぐってくることがある。

だれも、自分が英語が得意だとは思っていないと思うし、もっと英語が上手な人はほかにもいる。だけど、流れというか、役割というか、だれもやらないという理由で英語で仕事することになる時がある。自分でも、分不相応だなーとよく思う。

で、よく思うのが、英語が上手な新卒の子が、なんで(国内で主にビジネスをする)大企業に就職するんだろうかってこと。

その手の大企業に就職した場合、英語を使う仕事につくことは思いのほか難しい。なぜならば、大企業は人気企業・人気業種ゆえに、ほかにも英語が得意な人がいる。結局、英語業務の競争率が高くなるし、普通の業務ができて初めて英語の能力が評価対象になってくることが多い。でも、この辺の事情は、グローバル展開する大企業でもあまり変わらない気がする。

以前勤めていた会社などは、売上の90%は国内での売り上げなので、英語を使う仕事はほとんどない。だけど、それなりに大企業なので、見栄を張って英語が得意な子を大量に採用する。だけど、実際に英語を使う業務に配属する子は、本当にごく一部だし、下手すると翻訳の下請け屋さんになってしまって、見ていてかわいそうになる

個人的には、そういう人は、地味な業種や不人気な企業にするほうがよい気がする。地味な職種は、世間受けは悪いかもしれないけど、逆に言えば、自分が得意なこと(ここでは英語)ができる人も少ないので、社内では重宝されるはずなのだ。しかも、つならない下請け業務よりも重要な業務を直接担当できる可能性が高くなる。結局生かせずじまいのスキルを持て余すくらいないならば、必要とされるところでスキルを発揮したほうが人生ハッピーなのではないだろうか?

などと、なぜかつれずれ思った日曜の夜