2013-03-31

在庫管理のための需要予測入門

在庫管理のための需要予測入門(2004)
東洋経済新報社
キヤノンシステムソリューションズ株式会社数理技術部


需要予測の「手法」ではなく「使い方」を説明した本

調査会社にいたとき、よく、利益につながらない調査は無駄、言い換えれば、発注するんだから、利益につながる調査結果を出せ、といったことをよく言われたものだ。まあ、確かにそうです、正論です。が、1回コッキリの調査で利益につながる調査ができるのかといわれれば、そんなことがあるのでしょうか?というのも事実なわけで。

マーケティング業界以外(たとえば製薬とか金融系)の事情はよく分からないけど、データ分析をする直接の利益とは、分析対象への知識が増えることではないか、とおもうことがよくある。言い換えると、何を調べると利益が増えるのかがわかるようになる、、、ということ。

たとえば、どこかの業界で競合とか消費者のことを調べると、利益を増やす打ち手が思いつくとする。

そこで、まず、何を調べるか考えて、市場調査したり、自社の手持ちデータで分析してみる
すると、なにがしかのデータ傾向が分かる
で、自社(Company)・競合(Competitor)・消費者(Consumer)にどんな事情があったら、そんなデータの傾向になるか、つれづれ考える
もし何か思いつくことがあれば、思いつきに基づいて、何か手を打つ

調査対象・分析手法・データ解釈・施策、全部正しければ儲かるし、どれかひとつでも間違っていれば儲からない。

で、この中で特に重要なのが、最初の何を調べるかを決めること。利益と最も関連が深い競争のポイントを調べるべきなのですが、その勘所が、一体全体どこにあるかを探るのが、もっとも大変なわけであります。が、データ分析にトッポイお客さんは、調査することと、調査対象が正しい(=競争環境や消費者行動の勘所)ことを混同しがちなわけです。

じゃあ、どんなときに競争のポイントに迫れるか?といえば、データ分析を繰り返すうちに、市場の知識の増えてきて、儲けるための勘所が分かってくるわけです、たぶん。まあ、データ分析のPDCAですかね、、、といったことを需要予測という面からまとめてあったのでございます。

言っていることと望んでいること

社内・社外をとわず、今の業界に転職してびっくりしたことがある
それが、なにかといえば

「言っていることと望んでいることが違う」

ということ。

たとえば、どこかの会社が調子悪いとする
売上げも悪い時は、多くの場合、利益も減るものだ
で、そんな時にマーケティング関係者たちが

「会社の利益が増えるように、商品数や品ぞろえを最適化したい」

といったことを言い出すことがある

Operation Researchや統計学、線形計画を学生の時に勉強した人にとって、「最適」という言葉はすごく重い、と思う。最適と言われると、制約条件は何かとか、どんな要因を最適化すべきだろうかとか、どのソフト使えばいいんだろうとか、そもそも、線形計画って勉強したことないよな、、、など、いろいろ考えてしまう。

が、しかし、、、、です。

最適な・・・・と言っている人が、必ずしも学生の時にORや統計学を勉強してないことが多い。というか、そんなもの勉強したことない人がほとんど。で、最適化とは、おおむね客観的とか、なにか他の基準にしたがって、ひどいときには、俺のセンス、、、、というレベルというのが現実なわけです。利益を増やすためには、何か無駄なもをなくす必要があって、だから最適化しなきゃいけないという事情をさして最適化といっているわけで、では、本当になんとか最適化したいのかといわれれば、正直な話、そこまででないことが多い気がする。

そんなことがおきるのは、マーケティング関連のデータ分析者は、学生の時にデータ分析を勉強していた人は少数派どころか、学生の時は全然勉強していなかった人が多数派なわけで、もっといえば、仕事をしているからといって、分析のスキルがあるわけでない、、、、というのが現実。

データ分析には専門的な知識が必要、というコンセンサスが確立できれば、この手のギャップは過去の話になるのだろう。そして、コンセンサスが確立するためには、今のBig Data祭りで分析者がすぐれた成果をあげることが必要なのかもしれない、、、などと漠然と考える日々なのであった。

2013-03-20

2013年3月20日大歩危小歩危

祝日の20日は、レンタカーを借りてドライブをしました

朝8時ごろ目が覚めました。はてさて何をしようかと、ベットで寝そべりながらテレビを見ていると、今日の天気は雨だと言っている。雨だと、自転車と徒歩では、まともに行動できない。そこで、レンタカーを借りることにしました。すぐにレンタカー屋に電話し、車を予約。そのまま自転車で家を出て、レンタカー屋で車を借りて、目的もなく、とりあえず山方面に車を走らせました。

運転している途中で、朝ごはんを食べていないことに気がついた。何を食べようかと思案していると、同僚がおいしいさぬきうどん屋を、いくつか教えてくれたことを思い出した。その中で唯一、お店の名前を覚えていたこがね製麺所に行くことにしました。

これが、こがね製麺所の肉ぶっかけ?とおでん


ここのおうどんも、とてもおいしかったです。というか、どこにいっても、まず間違いなくおいしいです。こがね製麺所は、どちらかといえばツルツル系だった気がします。で、最初はやわらか目なのですが、うどんの最後にコシがあり、これはあらたなパターンでした。

で、うどんを食べたのち、塩江温泉を通り過ぎ、徳島県に入りました。とくに目的もなくどんどん吉野川をさかのぼっていくと、大歩危まで20Kmという表示が出てきたので、なんとなく大歩危を目指すことに。たぶん、1時間くらい吉野川をさかのぼったところ、大歩危という道の駅にたどり着きました。たいして期待せずに眺めたのが、この景色。



思った以上の絶景でびっくり
深い峡谷を雄大に流れるエメラルドグリーンの吉野川が、想像以上にきれいでした。大歩危は、川下りとかラフティングもできるようです。雨が降っていたので、川下りは見送ったのですが、近いうちに再訪してみたいなーと思いました。

で、道の駅にいた、こなき爺


子泣き爺は、祖谷地方に伝わる民話にでてくる妖怪だそうです
説明書きには、子泣き爺のいわれが書いてありました。それによると、柳田国男が民間伝承に出てくる妖怪を調べて、妖怪談義を執筆していたとき、祖谷地方の妖怪としてこなき爺を発見?したとのこと。で、柳田国男の妖怪談義を、水木しげるがゲゲゲの鬼太郎でアニメ化して、一気に世の中に知れ渡った、といったことが書いてあったはずです。道の駅は、妖怪博物館も併設していたのですが、なんとなく入りそびれてしまいました

雨も降っていたし、7時にはレンタカーを返す必要があったので、大歩危を軽めに見学したのち、さらに吉野川をさかのぼり、ついに、どこだかわからに峠を越えた高知県に入りました。そのまま走ること1時間くらいで高知市までたどりつき、別にどこを見ることもなく、そのまま高知ICから再び高松に戻ってきました

大歩危は思った以上に絶景で、再訪して、散策してみたいなーなどと思いました
といったことで、3月の祝日も過ぎ去っていってわけでございます

2013-03-18

2013年3月17日尾道散策

17日は尾道観光に行きました

朝10時ごろ起き、急いで身支度をし、まずは、うどん十段バカ一代というネタとしかおもえない近所のうどんの名店でうどんをたべにいきまいした。バカ一代は、今回の訪問が2回目です。ここのうどん、何かの食感と似ているなーと前からおもっていたのですが、米粉パンとさぬきうどんのあいのこ的な味だと、今回、気がつきました。

で、その後、瓦町から高松駅に移動、たしか11時ごろのマリンライナーにのって岡山にいきました。で、岡山からは三原行きの普通電車で西に向かうこと1時間半くらいで尾道にたどり着きました。なんとなく、倉敷から10分くらいで尾道につくのかと思っていたのですが、おもったより遠かったです。

で、駅の観光案内所で地図をもらい、尾道の路地をたどって寺巡りをしました


  全般的にこんな感じの路地と坂道をひたすら歩き、お寺巡りをします。



しばらく歩いていくと、志賀直哉の旧居がありました。よくわかりませんが、志賀直哉が何年間か、景色がきれいな尾道で創作活動をしたそうです。たしか、地元の隣の市の我孫子も手賀沼の景色がきれいだとかいうことで、有名な白樺派の作家がたくさん住んでいました。志賀直哉の旧家の写真を撮ろうと思ったのですが、わけのわからん観光客がウロウロして雰囲気が悪かったので、興ざめして写真を取り損ねてしまいました。志賀直哉の旧居からしばらくあるいてたどり着いたのが、尾道文学館。と、文学館の庭からみた尾道水道。







文学館から写真を撮っていたところ、資料館のおっちゃんが話しかけてきて尾道の町の由来を説明してくれました。おっちゃんによると、かつて、尾道は江戸~明治時代の初めのころは、広島の4倍もおおきな経済規模を保持する瀬戸内海を代表する港町だったそうです。で、その繁栄を支えたのが、海運で儲けた豪商たちで、彼らは、自分たちの菩提寺として、山の中腹に、たくさんのお寺を建てたそうです。尾道の町が約2キロのだそうですが、最盛期には88か所のお寺があったそうです。尾道が栄えていた話はほかにもあって、広島銀行の前身の六十四銀行は、尾道の豪商が設立に尽力したとも言っていました。

おっちゃんは、最近の尾道の話も教えてくれました。尾道の路地は、小路(しょうじ)と呼ぶそうです。こんな風な街になったのは、鉄道を通すときに、みんなが山腹に無秩序に移住した結果なんだそうです。あと、坂道の路地に、ネコが2~3匹いれば、尾道のきれいな風景が簡単に出来上がるんだけど、最近は、路地のうえに急坂なので、住む人の少なくて空き家が増えて困っていると言っていました。おっちゃんは暇だったらしく、一方的に一通りしゃべったのち、ふたたび文学館のなかにもどっていかれました。

で、これが尾道名物の小路とネコさんたち


ネコと路地は、やっぱり良い組み合わせですね。時間が止まってます。
つづいて、天寧寺と尾道水道。天寧寺は、国宝?とのことでした。ここの景色はとてもきれいでした。


で、再び路地をあるく、あるく・・・


路地の中にあるカフェ
入りませんでしたが


で、山頂にある千光寺にむかうロープウエー乗りました
ロープウエーからの景色


山頂からの風景。やっぱり尾道水道




これが、かの有名な百八煩悩減除大念珠
念珠をクルクル回すと、なんと煩悩がなくなるそうです。すごーーーく回してみたかったのですが、このアトラクション、すごく人気があって、たった一人で来た身では、おいそれと近づくことができませんでした。9個も漢字がならんでるなんて、かっこいーですよね



 で、やっぱり尾道と階段とネコさん


で、最後にたどり着いたのが、やっぱり国宝の浄土寺
たしか、聖徳太子ゆかりのお寺




 これも国宝の多宝塔


これが隣にある海龍寺
小さいけどきれいなお寺でした



で、お寺をひとおとり見た後は、名店朱華園の尾道ラーメンを食べました
尾道ラーメン初めて食べたのですが、おしょうゆ味の素朴な味わいでとてもおいしかったです


その後、商店街をとおり、尾道のおみやげ物屋さんで、はっさく大福とゆういちのパン屋のレモンあんぱんをかってたべました。はっさく大福は、ぱっと見いけてなかったのですが、ふと、テレビでやっていた事を思い出し、前から食べたかったやつだと思い、一度お店を出たのち再び買いに戻りました

中屋さんのはっさく大福は、はっさくが丸ごとはいっていておいしかったです
レモンあんぱんは、レモンの皮の苦みが、これまたおいしかったです

で、たしか6時ごろの岡山行きの電車に乗り、7時半ごろ岡山に到着。8時のマリンライナーにのり9時ごろ高松に到着しました

お寺だけで、どんだけ楽しめるのかすごく不安だったけど、路地をフラフラ歩きながら、尾道の風景とお寺巡りをかなり楽しめました

といった感じで、高松2週目も過ぎ去っていったわけです

2013年3月10日倉敷

やんごとなき理由により高松に2ヶ月間住むことになったので、休日は瀬戸内海沿岸の観光地巡りをすることにしました。で、最初に訪れたのは倉敷。

たしか、11時半すぎ高松発のマリンライナーに乗り岡山へ移動


12時半ごろ岡山につき、山陽線にのって20分くらいで倉敷に到着
で、駅から歩くこと15分くらいでたどり着いたThe 倉敷的風景がこれら

倉敷川沿いの旧家


倉敷の発展を支え大原孫三郎の家。大原孫三郎は、クラボウとクラレ、中国銀行の創業者で、倉敷の発展を支えたとても偉い人みたいです



で、大原孫三朗が収集した美術品を展示している大原美術館
大原さんは、有能な美術家児島???さんをヨーロッパに派遣して、いろんな美術品を収集したようです。モネとか、ルノアールなど誰もが知っている美術品を展示しています。が、なんせセンスがないもんで、作品がもつ価値観を咀嚼できずに展示品を鑑賞しました。





星野仙一記念館なるものもありました
入りませんでしたけど







次に行ったのが。倉敷代官所の跡地に建ったクラボウ発祥の地


当時の建物はツタがおおっており、倉敷ivy squreと称しておりまし



で、その後、再び蔵と白壁の町を散策


最後に倉敷珈琲館で珈琲をいただきました


なにかあったかと言われれば、これといって何があったわけではないのですが、全般的に落ち着いた雰囲気で、白壁の町をとても楽しめました。

むかしは、刺激的な何かがないと、面白くなかったのですが、落ち着いた雰囲気を楽しめるようになったのは、自分が成長したからではないか、、とおもった倉敷で過ごした休日なのでした

2013-03-11

採用基準


地方生活が、あまりに暇なので、オヤジ系ビジネス本を読んでみた。

採用基準 (2012) ダイヤモンド社
伊賀 泰代


スピリッツなみの軽めの内容ということもあり、2~3時間で読み終わりました。
いや、正確に書くと、著者がとてもかしこいので、気軽に読めるように書いてあるわけです。

著者は、超一流国立大を卒業後、超一流の金融機関でエリートコースをあゆみ、さらに自費で米国超一流大学でMBAを取った後、外資系の超一流コンサルで活躍し社内で人事マネージャーのポジションを獲得。さらに会社を辞めて独立したという超一流の中でも超一流の経歴を持つ人。

で、何かが書いてあるかといえば、煎じつめると、こういうことだと思う

(1) 人生、自分の価値観に従って生きるべきだ

(2) プロジェクトやグループのリーダーであろうがなかろうが、サラリーマン経験によらずだれもが仕事にコミットしなきゃいけません

------

思えば、自分自身、自分がやりたいこと、こうありたいと思うことに忠実に生きてきた。世の中、他人様の評価が気になる人もいるようだけど、自分は関係ない。


だいぶ昔、よく見るHPの中で、「てんでん しのぎ」という言葉を目にしたことがある。英語で言うと At your riskというようなことだ。そもそも、自分ができることなどたかが知れているし、自分が持つ能力・人・物・カネを使って乗り越えることが難しい課題に遭遇することもある。そんな時は、人事を尽くして天命を待つしかない。むしろ、できることはやったと思えれば、結果なんてどうでもいいのかもしれない。結果だけが気になるのは、まだ何かできたことがあるとか、他人さまの評価が結果だけに基づいている時かもしれない。自分自身としては、リスクを取って何かしたからこそ、何が足らないがわかるわけで、だからこそ失敗することに価値がある。他人の評価が自分の価値基準だと、こういうわけにはいかない。


仕事もコミットするもんだと思っていた。たしか働き始めて2年目のころ、定年間近のおっちゃんに

「オマエが現場監督なんだから、明確に方針を出せ」

と言われたことがある。別に、現実的に、現場監督という職種ではなかった。が、2年目のひよっこだったとしても、その道何十年の大先輩や経営者に対しても、プロジェクトが進むべき方向に、自分なりの指針と、その根拠を示すことが必要だった。そして、コミットするためには、リスクも引き受ける必要があったし、そんなものだとおもってきた。同じようなことは、居酒屋とや場末のスナックでヘベレケに酔っぱらったときに会社のジジイどから説教されたものだ、こんな風に。

「○○ちゃん、、、、仕事ってのはなあ~~」



もちろん、○○ちゃんは、自分の名前ですよ


周囲の人の協力を引き出すためには、自分が仕事にコミットしてリスクをとることが必要だと思ってきたし、そう行動してきた。がしかし、大企業、有名企業、独占企業に所属してみて、そんな風に考えない人たちが多いことを初めて知った。そんな企業の正統的なサラリーマンとは、言われたことを忠実に行う、リスクをとらない、指示を待つ、、、、といったところにみえるし、この本が提唱するサラリーマン像とは完全に逆だ。


書いてある内容は、ジジイの説教みたいだけど、誰が書いたかで内容の価値と説得力が変わってくるのは、やはりマッキンゼーブランドのなせる技なんだろう、、、そんなことを感じた高松での休日の夜

2013-03-08

転職1週間目

新たな職場に移って1週間

さすがに本番という感じではない。オフィス内も、とてものんびりした雰囲気だ。地方都市ということも影響しているはず。

ただし、本番でないことを差し引いても、さらされるプレッシャーは前職よりも格段に低い。むしろ、ちょっと前まで、役職と給料と見合わない強いプレッシャーにさらされていたことを再確認する毎日。

部分的なスキルしか持たない人、、、、どんなに努力しても乗り越えられない壁を前にして、やる気のなさを前面に出し自尊心を守る人、すべての理解をあきらめて判断を他人にゆだねる人、自分の不作為を認めない人、、、、仕事よりも職場内の彼氏との関係を優先する人。プロジェクトメンバーは、そんな人たちだった。ただし、クライアントはそんなこと関係ない。クライアントの要求は常に厳しかった。だから、すべての矛盾を自分自身が解決する必要があった。約2年間に渡り、自分がもつスキルと経験で矛盾を解決し続けた。

しかし、2012年末。プロジェクトを離れることにした

最終出社日が近づくにつれて、メンバーのやる気はどんどん高まった。プロジェクトメンバーがこんなに前向きに仕事を取り組んだことはない。そんな中で、最終出社日を迎えた。最終出社日の翌日から行った九州旅行の間中、残してきたプロジェクトとメンバーの行く末が気になって仕方なかった。もっといえば、、今からでもプロジェクトに戻りたい・・・・とすら思った。

しかし、今なら、ハッキリと分かる
プロジェクトとメンバーを見放したのは、正しい判断だった。

退職日が近づくにつれてメンバーのやる気が増したのは、彼ら自身、もはや、やりたくないことから逃げらないと理解したからだ。しかし、そもそも、彼らが職務を全うすべきかは、オレの退職とは関係ない。結局、メンバーが本気になるために自分の退職が必要だったのだ。

手がけていたプロジェクトが、この先どうなるか皆目見当つかない
うまくいくかもしれないし、今以上に迷走するかもしれない。
いや、もっとEasyになるかもしれない。

どうなっても、何の後悔もない
この2年間、自分ができることはやった。
何の迷いもなく、そう考えることができる。

プロジェクトを手放すことは、今まで体験したことがない辛い決断だった。しかし、だ。時には、辛い決断こそ必要なのだ。辛い決断が、当時のStakeholder全ての人にとっても笑い話になる日が来るはずだ、、、、そう考えることができるようなった高松での週末の夜。

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木曜日に、サプライヤーが提供するソリューションの社内展示会があった。
興味もそうだが、予算もないだが、上司のすすめもあり展示会場にいくと、サプライヤーの営業担当者がいろいろサービスの説明をしてくれた。
サービスの中には、前の会社が直接競合するものもあった

たった1か月前ならば、自分が説明する立場だったはず

ほんの少しだが、人生を前に進めたことを実感した瞬間だった


2013-03-02

九州縦断旅行6

最終日の25日(月)は、博多観光、、、というか神屋宗堪関連めぐりをしました。なぜ、神屋家・・・・といわれれば、まあ、祖先がどうのこうのという事情がいろいろとあるわけです

で、ホテルをチェックアウトして、はてさてどーーしたらいいんだとおもってブラついて見つけたのが、島津博多ビル。


なんで、こんなビルが気になるかといえば、正直な話、まあそれほど気になるわけではないのですが、偶然にもほどがあるとおもったわけですよ・・・。

しかし、なんですかね。
最近おもうのですが、会社の社風というか、仕事に対する取り組み方が、従業員・会社の双方にとって、本当に目に見えない財産であるってのは、転職を重ねる身としては、本当に身にしみますね。とくに、最初に勤めた会社が、自分の基礎を作ったといえばまさにそうで、その辺で齟齬があると、転職先をこの上なく許せなくなったりすることがあるのだと、、、最近、気づきつつあるわけです

まあ、そんなことを思いながら最初に訪れたのが、妙楽寺


これが念願かなってお墓参りした神屋宗湛のお墓


で、その後、神屋宗湛の屋敷跡にたてたお寺の跡の豊国神社




で、豊国神社を見たのち、となりの神屋町もぐるっと見てまわりました。まあ、特に何もありませんでしたが。その後、バスで天神までもどり、ちょっと休憩した後、まだお昼前だったので、地下鉄に乗って茶室があるという崇福寺にいきました。崇福寺は、福岡藩の藩主黒田家の菩提寺で、博多ではそれなりに有名らしいです。で、茶室を探しましたが見つからず・・・。お寺に張ってあったチラシを見たところ、たしかに崇福寺はお茶会で有名らしいのですが、肝心の茶室は一般公開していないとのことでした。




そんなことをしていたら、昼の2時を過ぎになり、予約してあった4時半のスカイマーにのって羽田に戻っまいりましたとさ。ということで、臨時ボーナスとなった特別休暇も、そんな感じで過ぎ去っていったわけでございます。


2013-03-01

九州縦断旅行5

24日(日)は、雲仙温泉を後にして、島原観光しました。で、その後、漁船のようなフェリーにのり対岸の大牟田にわたり、西鉄特急で福岡に移動、宿泊しました

朝起きて、せっかくなので、再度いおうの温泉にはいり、雲仙を満喫した後、朝食を食べました。で、たしか9時半ごろ旅館をチェックアウト、一時間ほど散歩したりして時間をつぶし、10時半の島鉄バスで、雲仙温泉をおり、島原外港に移動しました。

で、バスの中から見えた雲仙平成新山がこれ



正直な話、雲仙といってもなんとなくピンとこなかったわけです。溶岩ドームを見たとき、が、そうえいば、高校生のころ雲仙が噴火する様子を報道していたことを思い出しました。たしか、とても大きな火砕流が発生して、消防署の人とかカメラマンがなくなったはずです

で、はてさて、どこでバスを降りるべきかと逡巡しているうちに、島原外港に到着。大牟田に行くならフェリーに乗らなきゃいけないというだけの理由で、港で下車しました。で、港で、はて、このさきどうすべきかとブラブラしていたところ、なんとコインロッカーとレンタサイクルを発見。そこで、港に荷物を置き、レンタサイクルで島原観光することにしたわけです。


港と島原の街がどのくらい離れているか見当つかなかったのですが、西に向かうこと20分くらいで街らしき場所にたどり着きました。で、最初に見つけた島原名物が浜の川湧水。




きれいな水が、まさにこんこんと湧き出ていて癒されました。で、一人でじっと見ているのも、それまたアヤシイので、浜の川湧水をそうそうに立ち去り、つぎに行ったのが島原城



島原藩はたった4万石らしいのですが、お城だけ見るとすごく立派です。50万石以上あった島津藩が、天守閣を作らなかったことを考えると、なんというか、今風に言えば見栄っ張りな大名ようです。が、その結果、領民に大変な苦役を強いたため、天草・島原の乱という大一揆がおきてしまいました。ちなみに、島原の町をウロウロしましたが、天草四郎の生まれ変わりと喧伝している美和明宏の姿は露も見ることができませんでした。勝手なことを言えば、美和明宏をうまく担いで、島原・天草観光に役立てることはできないのかなー、でも、田舎だし保守的だよなー、よく考えると、都会でもヤダナーなどと漠然と思いをめぐらしたわけでございます

これが、島原城内にあったおみやげ物屋さんの寒さらし。まあ、平たく言えば白玉ダンゴです。



話が前後しますが、島原城の由来


原城の模型。原城は、一揆方が立てこもった戦国武将有馬氏の古い居城です。島原城の中は民族博物館らしきものになっており、一揆を誘発したキリシタンに対する拷問の様子も展示されていました。なんでも、改宗しないと指を切り落としたり、雲仙の噴火口に突き落としたりしたそうです。それでも改宗しない人もいたとかで、それはそれですごい、というか、拷問されて改宗したとなると、そのあともどんな目に合わされるか分からないのかも知れない、などと漠然と思いました。


これが天守閣からのながめ



島原城を堪能した後は、再び湧水のある町並みを見て回りました
これが、湧水庭園「四明荘」。いわれはよくわかりませn


湧水がある町並み。
水路にコイを放しているのですが、観光客がこぞってコイを写真にとっている姿を見て、コイってそんなに珍しい魚だったんだと思いを新たにしました



で、島原観光を終えたのが、大体午後2時ごろ。漁船フェリーは3時過ぎの出発だったので、おそらく地元の魚屋さんとおもわれる平野鮮魚さんがやっている定食屋でお昼ご飯をためました。



たのんだお刺身定食
味は、、、まあままですかね。


で、お昼ご飯を食べた後、大牟田に船で移動しました
これが、島原鉄道が運営する漁船フェリー


揺れるかなーとおもったのですが、凪だったので、ぜんぜんゆれませんでした
大牟田港についた後は、バスで駅に移動し、西鉄特急で福岡天神まで移動しました
で、地下鉄で祇園駅まで移動し、無事、ホテルにチェックインし24日のイベントも無事修了、とあいなったのでございます