草魚バスターズ
真板 昭夫 (著)
草魚を放流したことによって、古刹京都大覚寺にある大沢池の崩れてしまった生態系を再生した大学の先生の話
環境破壊とは、人間の一方的な都合で自然を壊すことだ。森林を切り開いて道路を作る、河川をせき止めてダムや河口堰を作る、、といったことがある。一方で、自然保護とは、壊れた自然を再生する、あるいは、手つかずの自然を残すといったことを意味する。屋久島・知床半島のように人が自然にかかわることを制限・阻止したり、足尾銅山の煙害で失われた森を再生する、、といった例が思い浮かぶ
環境破壊と自然保護は真逆の考え方だ。がしかし、一方で、ある面では共通することもある。それは、自然と人間は対立するとみなす点だ。人間が自然を利用すると環境を破壊するなら、人間は自然を利用できない。その逆もしかり。人間が自然を守りたいなら、人間は自然を利用できない、、、。つまり、環境破壊と自然保護は、人間 vs. 自然という点では全く同じなのだ
たしかに、工業化が進んだ現代では、人間の活動が自然に与えるインパクトは極めて大きい。がしかし、古来より、人間は自然を利用してきたのも事実だ。では、陳腐な言い方だが、人間と自然が共生できる条件とは、どんなときか?
里山・里海という言葉がある。かつて、日本人は(日本人にかぎらないのだろうが)、自然をうまく利用して生活した。例えば、有限な資源を守るために、入会地をつくる、民話を伝承することで、共有地のジレンマをうまく解決してきた。ため池の底泥や湖沼の水草を畑の肥料に使うことで、水の中の栄養塩を陸に上げ、湖沼の水質を(結果的に)維持した。つまり、人間の生活が生態系の維持に組み込まれていて、あるいは、生態系の一部に人間の生活を組み込むことで、継続的に自然を利用することができた。ここでは、人間 vs. 自然という対立軸はない。
草魚バスターズは当初、大沢池の景観を取り戻すためにに必要なことjは、草魚の生息数を減らすことだけと考えていた。がしかし、活動が進むにつれ、どのような景観を大沢池に取り戻すべきか?住民や観光客は大沢池はどのようにかかわるべきか、といった当初は考えられなかったような問題に直面した。もじゃもじゃ先生は、生物学の知見に固執せず、生け花の歴史や地域社会とのかかわりを通じて、柔軟に問題を解決していく・・・・
軽めの内容で、さらりと読める
加えて、人間や社会と自然のかかわり方を考え直すきっかけになる
とてもよい本、おもしろかった