2011-07-09

世間は感情で動いている!

このブログを、毎日見ています。なんか、おもしろいので。
で、今日のネタはコレ。思うことがあったので、金曜の夜だし、もうお風呂もはいったので、いろいろ書いてみます。

Limnology 水から環境を考える
科学の花

(以下、引用)

今でも土浦市の小学生がアサザ植栽事業にかり出されているようです。その子達が自然科学を通じて水環境を考えるようになれば、子供の頃のアサザ植栽事業がどういうことだったのか、なぞがとけると思います

#アサザを植えることで霞ヶ浦にトキが来るようになるのか。トキ復活の専門家である山岸先生は、「非常にシンボリックにわかりやすいのでお使いになっているだけで、本心は来るとは思っていないのではないかと僕は思うんですけどね」と言われています(河川環境管理財団講演集vol.14,p25)。

たしか、かの東京大学で陸水学?を研究している先生のブログです。ブログ内容から推測するに、この先生は、湖沼沿岸における生態学、つまり、水際とか水中の水草の生態が、湖沼の水質・底質・生態系に与える影響を研究しているようです。で、専門家の立場から、このブログで、霞ヶ浦のアサザ(という水草を増やす)プロジェクト(を行っているNPOを)を痛烈に批判し(続け)ています。

で、今日のネタは、そのアサザプロジェクトの冊子が、「アサザを植えるとトキがやってくる」といった感じのことを宣伝しているらしく、トキの専門家の意見を引用して、アサザプロジェクトを大批判しているのです。

というのが前置き。で、以下思ったこと。

先生は、トキをモチーフにしたアサザプロジェクトを批判しています。なぜならば、非(自然)科学的だから。でも、自然保護・自然の大切さを子供に教えるときに、科学的な根拠を教えることを優先すべきなんでしょうかね?というか、そんなこと、個人的には、あとからでもかまわない気がする。むしろ、子供には、大嘘にならない程度の自然保護を重視したときの夢を抱かせたほうが良いのではないんでしょうか。

というのも、子供に、正しさを重視した説明をしても、よく理解できないから。つまり、合理的な説明が理解できないから、自然保護を重視することに共感してもらえない・・・というパターンに陥る気がする。

そもそも、誰かに、ある種の社会活動を理解してもらうためには、正しさというよりも、親近感とか共感の方が重要だと思う。もちろん、親近感とか共感は、問題の正しい理解とは無関係です。だけど、自然科学は難しいので 、親近感とか共感がない限り、正しく理解したいという気持ちすら生まれないのではないですかね。その意味で、他人様の寄付でしか運営できないNPOアサザプロジェクトは、かなりの誇張を承知の上で、トキがやってくる絵?を書いてる気がします。

そもそも、アサザプロジェクトの支持者って、子供たちってより、学校の先生とか親のはず。先生が子供の課外活動として、アサザを植えるプロジェクトを選ぶんでしょ。だから、先生たちにとって重要なことは、子供がアサザプロジェクトを通して、それっぽい夢を描かけるようになることなんでしょうね。だから、誇張してでも、多少大げさな夢を与える雰囲気が必要なんでしょうね。そして、この辺の違いを、学会で正しさを認められれば予算が下りる大学の先生には、自然科学など何の興味もない世間様の寄付で運営しているNPOのやり方など理解できないのでしょうね。

まあ、目指しているもの、たとえばコレで言えば霞ヶ浦の自然保護、、、ってのは同じなんだから、うまく協力してやればいいのにねーーーなんて思ったのでした。

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2012/3/14 追記

べつに、誰に聞かれてるわけでもないですが、わたくし、アサザプロジェクトが繰り広げる主張を支持してませんし、大学の先生は、自然科学的に圧倒的に正しいと思います。でも、アサザプロジェクトに何が示唆の妥当性(正しさじゃない!)があるとするならば、大学の先生はアサザプロジェクトの欺瞞を糾弾するけど、個人的には、ウソのつき方にも何がしかの芸があって、それは大学の先生にとっても注目に値することではないのか?などと漠然と思うわけなのですよ。ちなみに、このブログ、アサザプロジェクト批判というキーワードですごく上位に上がってくるんですよね。なぜか。以上、おわり。

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2012/3/18 さらに追記

なにやってんだろ?という感じですが、先生とアサザプロジェクトの関係を端的に表現するブログを発見したので、引用します。

Theoretical Sociology
『ベストセラー小説の書き方』を通して小説と社会学論文の違いを考える http://sociology.jugem.jp/?day=20120308

ただし、できるだけ多くの人に理解できるおもしろいものを書こうとする態度は、ベストセラー小説だけでなく、社会学の論文においても(正しさやオリジナリティ、厳格な論証といった基本を外しさえしなければ)重要なものなのである。この文脈での Koontz と私の共通の敵は、「自分が納得できればそれでいい」といった読者を無視した自己欺瞞的な作家/学者たちである。彼らは本当は高い評価を得たがっているのだが、そのために努力することを怠っており、なおかつそのような屈折した欲望を隠ぺいしようとしている、としか私には(そして Koontz にも)思えないのである。


個人的には、まさにこのとおりと思うのです。つまり、先生たちが固執する「厳格な論証」によって、読者や世間様を無視する結果、ペテン師アサザプロジェクトが繁栄するわけです。といっても、こちらの東大の大先生さまが、アサザプロジェクトの養分につながっているかは、私には分かりません。が、まあ、世間は、学者先生を、そんな風に見ているってのは、まあ、それなりに事実って気がしますよね。

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