KADOKAWA
チカーノkeiが何度も見たと言っていたので、気になってみてみた映画。
チカーノkeiがヤクザになった当初、ヤクザとは、単なる非合法組織というだけでなく、社会から見捨てられ、落ちこぼれた自分たちを救ってくれる場だったと言っていた。実は、山口組の組長も同じことを言っていたのをおぼえている。やわらかく表現すれば、世の中には、正しく(=合法的に)頑張るべき場面で頑張り切れない人がいる。そう言った社会から落ちこぼれを、何らかの規律でまとめているのが、ヤクザである、と
この映画では、親子愛・家族愛ともいうべき、愛がいたるところで出てきた。救いようのない街のチンピラに、手を差し伸べる組長。片親の子供にお小遣いを渡す若きヤクザ。敬愛する親分を守る子分、兄貴分の罪を被る子分、、、。そんな中で、抗争による服役後に組を脱退し、カタギに戻った主人公は、職場の同僚ののちょっとした不注意で、全てを失い殺され、映画は終わる。
ヤクザの生きにくさに焦点を当てた展開で、ヤクザの生き方を正当化したくなる。が、そうではないだろう。映画の各所で色々な愛の形が出てきた。が、それも、犯罪者集団が自分自身を守る中で交わされる互恵関係の表面的な形でしかないはずだ。道徳に背を向け、法を破り、一般人を食い物にする中、自分一人では、法律や警察から身を守るすべがないからこそ、犯罪者同士で身を固めるために見かけの家族愛や親子愛が必要になる。それを、さも美しいものかであるように描くこの映画は、ミスリーディングでしかない。一方で、やくざ者の子供が、ふたたび半グレ集団を組織していたり、ラストシーンで、親がヤクザだったとは知らない主人公の子供が、半グレ集団のリーダーと接点をもつようになってしまう展開は、犯罪に手を染める社会階層に一度入ってしまうと、そこから抜け出すことの難しさも、描いているように思う。
思えば、かつてヤクザとヤンキー映画は、人気コンテンツの一つだったし、社会には彼らを受け入れる余地があった。しかし、犯罪の高度化と凶悪化は、やくざ者を社会から締め出す力となり、その結果が、この映画の悲しい顛末なんだろうと思う。
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