2014-07-01

ホリエモンとプロ倫

定期的にチェックしているブログで、ホリエモンの書評があった


知の専制
2014年6月15日日曜日
「ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく」

かつて、彼は確かに、「金で頬をひっぱたく」ようなことをやろうとしたと言えるのかもしれない。しかし閉塞状況にある日本では、あえてそこから前向きなメッセージを見出すべきだ。自由になるために全ての常識を疑おう、自由になるために働こう、との訴えは、その観点でとても力強く響く。これは重要な第一歩だと思う。堀江氏が旧著をはじめとした媒体で繰り返し主張する社会変革の必要性は誰の眼にも明らかで、それは歴史的必然と言ってよい。国がどうなっても自分自身の目先の既得権益が大事だと開き直るのなら別だが、その変革を拒むのは愚かなことである。


ホリエモンは同い年だし、こちらからすれば、彼を一方的に知っているだけで、どうのこうの言うべき相手ではないとよく承知している。だけど、彼は、本質的に優れてradicalで、radicalであるがゆえに、ビジネスでは成功した(過去形)けど、全く同じ理由で、社会の第一線から干されたのだろう、とよく思う。

「札束で頬をひっぱたく」ようなマネをホリエモンが試みたたというのは、傍から見てうなづける。そして、札端で頬をひっぱたいて、経済界や球界(近鉄の買収)、はたまた政治(広島選挙区での立候補)までをも変革させようとした。しかし、彼の試みは、ことごとく守旧派につぶされた。そして、その挙句、ライブドアは倒産に追い込まれ、ホリエモンは前科者になってしまった。

思うに、日々、業績評価に追い立てられている市井のビジネスマン達は、ホリエモンに、よろこんで札束で頬をひっぱたかれのだろう。だけど、すでに名を成した財界や政治家など、すでに札束を持っている人たちには、その方法が通用しなかったというのが、ホリエモンの限界なのかもしれない。

札束で頬をひっぱたくというのは、本当に下品な表現だ。がしかし、同時に、学生の時に読まされた、かの社会科学の古典「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」をなんとなく思い出す。細かいことはすっかり忘れたけど、この本の肝は、禁欲的にビジネスに励むことと、神の栄光を増すことを同一視したピューリタニズムが、資本主義発展の原動力となったというのが主張の一つだったはずだ。神の栄光=社会秩序とすれば、金儲けが社会秩序の形成に一躍の一助となったと考えると、ホリエモンの札束で頬をひっぱたくという行動は、ピューリタニズムの思想と重なる。金儲けしか興味がない(と表面的に思える)ホリエモンが、社会変革の必要性を声高々に唱える違和感のの答えの一部は、課の古典「プロ倫」にあるように思えてならない。

1つ違いがあるとすれば、ピューリタニズムは、守旧派が許容できる価値観の中から、結果的に新たな価値観を社会に浸透させたのに対して、ホリエモンは、守旧派がとうてき許容できない価値観を、強引に推し進めようとした点だろう。

ホリエモンが、Amazonや楽天といったネット新興企業が、ネット通販市場を席巻するずいぶん前に、その土台を確立しようとして買収した会社に勤めるものとしては、彼の比類なき先見性と価値判断に脱帽せざるを得ないと漠然と思う平日の夜

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